2020年のアカデミー賞で、4部門を獲得した映画「パラサイト」。皆さんはもうご覧になりましたか?
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格差社会という暗くなりがちなテーマを、ハラハラドキドキのエンターテインメント作品へと見事に昇華させた、本当に面白い映画でした!
驚くほど細かくメタファーが散りばめられており、考察が盛り上がっていますね。私も見終わった後、「あれはそういう意味だったのか!」と気がつくことがたくさんありました。
中でも、パク家の長女・ダヘには思うところがたくさんありました。
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劇中ではいまいち存在感が薄いようにも思えますが、実は、見る人に重要なことを伝えるためのキャラクターだったのでは?と考えています。
そこでこの記事では、ダヘにフォーカスした5つの考察を紹介したいと思います!
ここから先は完全にネタバレしています。必ず映画を見てから読んでください!
Contents
ダヘに関する考察(1)家庭内での孤立
まず、ダヘはパク家の中で孤立しています。
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両親は弟ダソンに夢中です。母親は言わずもがな、父親もダソンと無線機を使って遊んでいます。なのに、ダヘと関わっているシーンはほとんどありません。
ダヘが両親と一番多く会話していたのは、ダソンの誕生日キャンプの日。ダヘは「キャンプに行きたくない。ケビン先生(ギウ)と一緒にいたい」と言います。しかし両親は「ダソンの誕生日なのに、そんなことを言うなんて!」と、ダヘを責めるような口ぶりでした。
それだけではなく、母親は家政婦に作らせたラーメンを、ダソンか夫に食べさせようと口にします。ところが二人が食べないと分かると…ダヘの好物にも関わらず、そのまま自分が食べてしまうのです。
もしかすると、母親は娘の好物を知らなかった可能性もあります。そう考えると、ダヘがなんともかわいそうになってきます…。無意識にないがしろにされることほど、辛いことはありません。
このように、ダヘとダソンへの両親からの扱いには、明らかに差があります。この「男女格差」「兄弟格差」は、映画のテーマである「経済格差」と重ね合わせるために、意図的に表現されているように思います。
ダヘに関する考察(2)男への依存
ダヘは、ギウと早い段階で恋仲になります。
しかし、前任のミニョクも「彼女が大学生になったら結婚する」と、ダヘと恋仲であるかのように話していました。ミニョクが勝手に勘違いしていた可能性もなきにしもあらずですが、恐らく本当にダヘとは良い仲だったのだと思います。
担当する家庭教師とすぐにそういう仲になってしまうのは、ダヘが「魔性の女」だから…という解釈もできますが、私はそうは思いません。
というのも、先の項目の通り、ダヘは家庭内で孤独を感じていました。だから、自分を大切にしてくれる人物を切望していたはずです。
はじめての授業で、ギウに脈拍をとられたときが、ダヘがギウを信頼した瞬間だったのだと思います。自分のことを気にかけてくれる人が身近にいない状態で、自分の様子に事細かく気づいて、大切にしてくれる…すぐに恋に落ちても、仕方がないですよね。
ある意味、孤独を埋めるために「異性に依存」している状態ともいえます。別の意味での「寄生(パラサイト)」を表現しているのかもしれません。
ダヘに関する考察(3)自ら地下に降りる
ダヘは、パク家の中でもかなり特殊な存在だと思います。
そう思う理由は、終盤のパーティー中での行動です。ダヘは、消えたギウを探して自ら地下に降りていきます。
母親も地下に降りるシーンがありますが、それは家政婦を追いかけてのことです。用がなければ、自ら降りていくことはないでしょう。
ところがダヘは、そこにギウはいないかもしれないのに(実際にはいたわけですが)すすんで地下に降ります。上の階級にいる人物の中で、唯一自らの意思で地下に降りているのです。
これは、もともとダヘには上下の境界線がない、差別意識が極めて低い人物であるという意味なのではないか?と考えています。
ダヘに関する考察(4)ギウとのキス
ダヘに「境界線がない」と考えられる理由は、もう2つあります。ひとつめは、ギウとのキスです。
父親やダソンは、キム家の「臭い」を敏感に嗅ぎ取っていました。しかしダヘは、同じように「臭い」がするはずのギウとキスまでしているにも関わらず、「臭い」のことは全く口にしていませんでした。
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気がついている様子もないですし、もし臭いと思ったら、キスなんてしていられませんよね(^^;)
ダソンが父親と同じように、幼くして上層の感覚を身につけているのに対し、ダヘはそこまでの感覚は持っていなかった…ということを意味しているのではないかと思います。
終盤で、ギウとパーティーを見下ろしているシーンもそうです。ギウの「俺はここに似合ってる?」という質問に対し、ダヘは「うん」と頷きます。「なんでそんなこと聞くの?」というような表情で。
ギウに対して何の差も違和感も感じていなかったからこそ、戸惑いの表情が出たんだと思います。
ダヘに関する考察(5)日記の意味
ダヘに「境界線がない」と考えられるもうひとつの理由は、ギウが持ち出した日記です。
ダヘの日記は、ベッド脇にある小さなボックスの中に入っていました。そもそもギウは、なぜそこに日記があると知っていたのでしょうか?
たまたま部屋を漁っていて、たまたま取り出して読んでみたら、日記だった…という可能性もあります。しかし私は、ダヘがギウに「日記はここにある」と教えていたのではないか?と考えています。
劇中では描かれていませんが、ダヘは授業中、ギウといろんな話をしていたのではないでしょうか。実際、ギウはダヘから家政婦の桃アレルギーのことを聞き出していますしね。
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そして、「実は日記を書いている。あの箱の中に入っている」ということも、どこかのタイミングで伝えていたのかもしれません。なぜそんな話をするかといえば、それはやっぱりダヘが孤独だからです。
日記を見られるということは、自分の裸を見られるようなものです。「自分のことを知ってほしい=構ってほしい」という想いが、ギウに日記の場所を伝えるという行動につながったのではないでしょうか。
あのギウに持ち出された日記のくだりは、「父親が相手と一線を置きたがるのに対し、ダヘは自分から心を開く人物だった」という意味かもしれないと考えました。でもこれはちょっと、考えすぎかもしれないです(^^;)
ダヘというキャラクターが描くテーマとは?
映画終盤、事件現場から逃げるダヘが映ります。
何もしようとしない母親、自分だけ逃げようとする父親に対し、ダヘは血だらけのギウを背負って逃げようとしていました。自分よりもはるかに重い大人の男を担いだまま、必死に階段を上がってきたのだと思うと…胸がぎゅーっとなるシーンですね。
きっと、助けを呼ぶために、一旦は自分だけ地上に戻ったはずです。でも、そこでは惨劇が起こっていた。自分だけ逃げようと思えば逃げれたのに、ダヘはわざわざ地下に戻って、ギウを助けたのでしょう。
ダヘが担いで地上に出ていなければ、ギウは発見されるのが遅れて、助かっていなかったかもしれませんよね。ギウを助けたのは、紛れもなくダヘのギウへの「愛」だったのです。
格差社会の中で、二人の関係は唯一、階級を超えていました。「愛」こそが、格差社会での境界線を失くす、一筋の光。
ダヘというキャラクターによって、絶望的に思える格差社会における「小さな希望」が描かれているのではないか?そんなことを考えました。
長々と書いてしまいましたが、これはあくまでも私の個人的な解釈です。異論は認めます!他にもこんな解釈があるよ〜という方は、ぜひ教えていただけたら嬉しいです。
最後までお読みくださり、ありがとうございました!